力こそパワー
何を言うかではない。
状態。
態度。
人柄。

話術ではない。
物腰。
所作。
オーラ。

肩書ではない。
底の深さ。
語らぬ行動。
秘めたる何か。

説得力とはそういうこと。

人の寝るところは半分にし、
人の食うところは半分くらいにしても、
努力するところは人の10倍も20倍もやるだけの元気がなければならぬ。


力こそパワーだ!


若いAさんが言いました。

「電車が遅延したから遅刻しました。
 遅延証明書があります。
 ですからこれは「正当な遅刻」であり、
 私は責められない「権利」があります。」

たしかにそうですね。
誰かがそれを執拗に責め立てるのもおかしいですね。

しかし、私は思います。
電車が3~4時間も運転見合わせしていたならわかりますがね。
5~10分ごときの交通機関の遅延で遅刻すること自体が問題があるんです。
「だったらもうちょっと早くスタートしようよ」って思うわけです。
まあ、あえて強要はしませんがね。

できれば社会全体ひとりひとりが
そういう感覚を持ってほしいと思っています。

行動というものは何事にも影響します。
この人は事あるごとに、自分の外に原因を見つけ出しては
こう言うのでしょう。

「誰々がこうしてくれなかったから」
「世の中がこうだから」
「時間がないから」

しかし誰か/何かのせいにしても「マイナス」は消えないわけです。
遅刻という結果のインパクトは相手や周囲に対して残るわけです。


便利が先か、少子化が先か
「介護」という分野。

本当はもっとも「心」を必要とする仕事・・・なのだけれど、

・・・ロボット化されていく。


しかしそれは、仕方がないといえばそうだ。

介護「する側」の年齢があがってきている。
ロボット化しないと、体力が持たない。

少子化が深刻な影響を及ぼしている。


昔は「田植え」など、田畑の仕事は家族でやっていた。
今は機械で大きな面積を一気にやる。

「家事」・・・便利になってきた。全自動洗濯機から食器洗浄乾燥機、そしてルンバ

「時間」が増えてきた。

便利になった。時間が増えた。自由になった。


自由は渇きだ。渇きはさらなる渇きを生む。

自由を満喫したい。満たされることのない渇き。
子育てに割く時間などない。

介護の分野では、少子化の対策として便利さを追求しているようにも見えるが、

はたしてそうなのか。

便利さの追求こそが少子化を生んでいるように思えてならない。


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ひとつ言えることは、


便利になったとしても
「心」を見失わないようにしないといけない。

それは難しいことだけれど。


いくら機械化、自動化、ロボット化したとしても

心をこめる。

どこまでいっても最終的にはやはり

人と人なのだから。


「さみしい」でGoogle検索すると出てくる下記URLより引用。
http://www.counselingservice.jp/lecture/lec379.html

あなたが今、日常生活の中でやらねばならないことを、
投げやりでなく、ひとつひとつ心を込めてしていきましょう。

また、ふと思いついてやってみたくなることを、
「そんなことをやって何になるの…」などと考えずに行動してみましょうよ。

この二つのことを大切にしていくと、新たな道が開かれるように思えます。

手間をかける事柄が多いほど、
彩りのある、深みのある人生に繋がっていきます。

自分の人生にも、生き方にももう一度一手間かけてみませんか?

思うように進まない、生きにくいと感じるとき、
そんな時こそ手間をかけ、自分を見直す良い機会なのかもしれません。

なぜなら、それは誰のものでもない、
あなた自身のよりよい人生のため、であるからです。

行きたいけど行けないと思っているところ。
それがあなたの行くべきところなのかもしれませんね。



「無駄」ではなくて「手間をかける」っていう意識が
僕を強くするだろう。


行動



在り方



違う


ありのままの在り方で

慎ましく空気を読んだ行動をとるのだ。


駄目なら またそのとき考えよう
エネルギーは自分の為に何かしても充電できず。
ただ虚実と披露と孤独感が残るのみ。

以下のいずれかでしか得られない生きるパワーってのがある。
1)自然に触れる。
2)他人の為に何かする。
3)他人の行為に共感する。
お金を払ってるんだから、捨ててしまってもいいのでしょうか。

お金を払った瞬間にパッと目の前に現れるわけではありません。

野菜を作る人
運ぶ人
調理する人

沢山の人がいて初めて、料理がならびます。
沢山の人とのつながりを捨ててしまうことになるのです。
沢山の人の心を捨ててしまうことになるのです。

様々な人のおかげさまで、
ここに料理があるという
そのことに思いを馳せれば、

お金を払ったから貸し借り無しだ。
買ったものをどうしようが勝手だなどという
思い上がった心根が、
実は間違っているのだということに気付きます。

感謝の心をもって、
おいしくいただきたいと思います。
自分にあたえられた今のすべてを
感謝の気持ちをもって素直に受け入れ
全身全霊で日々を生き抜く人が、
どれほど美しくかがやいて見えることでしょうか。
1年後どうなるんだろう
将来どうしたいんだろう

不安に思ったりしなくていいし、
先送りしなくていい

今日という一日が大切だ
今日という日を精一杯生きよう
朝起きたら生まれたて
そよ風がおひさまをはこんでくるよ


いままで積み重ねてきたこと
過去にやってしまったこと

誇らしげに語らなくていいし、
卑下しなくていい

今日という一日が大切だ
今日という日を一生懸命生きよう
朝起きたら生まれたて
生まれ変わった自分がはじまるよ
男女平等の不幸
「13歳で結婚。14歳で出産。恋は、まだ知らない。」

という広告を電車の中で目にする。

この広告に写る異国の少女は不幸だということなのだろうが、
果たして、本当にそうなんだろうか。


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日本では女性も
「仕事するという機会を与えられ
女性が自分で選択できるようになった。」

と言えば実に聞こえはいい。


しかし「自分で選択する」ということは
言い逃れの道をひとつ閉ざすという意味では残酷だ。


その選択は、どういう判断基準で選択したのだろう。
そしてそれは良い選択だったのか。

結婚関係や出産時期に少なからず影響を与えながら
仕事を続けていくことは果たして本当に「良い事」なのだろうか。
そんなことは、それらすべてを経験せずして選択するのであるから、わからない。

つまり
言い聞かせるしかない。

言い聞かせて選択するのだ。
判断なんていう言葉は当てはまらない。
判断基準さえ持ち合わせていないのだから。
「選択した」と言い聞かせる。
本当は社会の流れにほとんど強制されながら。

そういう意味では強制的に結婚させられたのと
強制的に選択させられたのとで
何が違うと言えるのだろうか。



後になって考える。過ぎ去ってしまった年月を振り返る。

これでいいのか?よかったのか?
ひょっとしてこれは違うのでは・・・・?

====================

13歳という精神的に未熟な年齢のうちに結婚させられる。
選択の余地がないことはたしかに不幸なことではあるけれども

今の先進国の「機会均等」が
それに勝る選択肢を持ち、
その選択には幸福感があるのか
というと
本当にそうだと誰が言えるのだろうか。

機会均等が勝ると
誰が言えるのだろうか。

結局は自分しかいない。
何がどうなっても自分で決めるしかないのだ。

「これでよかったのだ。」

と。





知っているか、知らないか。

なんて何の役にも立たない。

出来るか、出来ないか。

だ。

まあ確かに
「知らなくたって出来る。知っている人を探せばよい」って誰か偉い人が言いましたよね。
それも1つですが、
しかし、今回はそういうことを言いたいのではありません。

===================

テレビや本やインターネッツやDNをみて
「イイハナシダナー」なんてのはザラにあり、
「知ってるよ」なんて誰でも言えるこのご時世。

しかし、だからって
その感動話やら啓発やらから即座に
自分の行動を変えて実行に移せる人はどれだけいるでしょうか。


あなたがいくらたくさんの本を読んだからって
朝、道端に捨てられている無数のタバコの吸い殻を拾い集めている人には
まるでかなわない。



私も学校でこんな話を聞かされたことがある。
「アメリカでは発言しない人はいないことと同じです。
 日本でもそれは適用すべきで、
 そうしないとグローバル社会では生き残れないですよ。」

しかし本当にそうだろうか。


韓国や中国に対して、
YAHOO民がネット上をいいことに吠え散らかしているように
政治家がそのまま思ったことを直接言い続けたら
問題は解決するのだろうか。

何でも思ったことを偉そうに相手が年上だろうが言ってしまえる世代。
いや、前にも一度、亜米利加の影響をうけてジーパンやら新人類やらと、
そういう世代は有ったようだけれども。

やり返す世代。


倍返しだ!なんていう言葉が流行りましたが

果たして、なんでもかんでもやり返すことがいいことなのか
とりあえず言葉を返して置かないと気が済まない社会。

そこには会話などない。
コミュニケーションなどない。

お互いが一方的に自分の主張を発言しているのみである。
まるでそれぞれ別のテレビを見ているようだ。

ひたすら相手を受け容れることが出来ないままで
自分の思いを発信しつづけているが、しかし
互いに相手を受け入れ、変化していくことこそがコミュニケーションであり、
会話であり、和を以て貴しとなす、ということなのだ。

自分たちの文化に対してさえ未熟な今の日本人に
発言を強要することは、果たして必要なことなのだろうか。
 ・「察する」という文化。
 ・気が付くという人間の基本的な能力。性質。
 ・人を尊び、年配を敬い、親に感謝する心。精神。
大切にすべきはそちらではないだろうか。
文科省の提唱する「生きる力」とは
本当はそういうことなのではないのだろうか。

何かアメリカの個人主義とは別物の
稚拙な社会が日本で生まれつつあるように思う。
卑しくも

損得や金銭目当てに奔走せずにはいられない私でありますが、

ときには人間としての本質を思い出し、

目の前の人と助け合い、

仲間の愚痴を聞いてやり、

そして、少しの間でも親に想いをはせる。
そんな時間を作りたい。

父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし

で、ございます。

4月は親の誕生日がある。
あの思い出の店にまた皆で集まろう。


物を買うときに買ってやってるという気になってはいないだろうか。

消費税8%。
自販機の不味い缶コーヒーが130円だ。
一瞬、買う気が失せる。

しかし・・・・・だ。

いまこそ、その物の奥に潜む
無数の人々の苦労を感じとろう。

コンビニのおにぎり1個買うだけでも。

米を作った人がいる。田んぼを耕した人がいる。
海苔を作った人がいる。
おにぎりを作るマッスィーーンを設計した人、組み立てた人がいる。
トラックで運ぶ流通を担う人がいる。トラックを作った人たちがいる。
棚に陳列して販売してくれる人がいる。

感謝だ。

買わせていただくことへ。感謝だ。

そのインフラに。感謝だ。


そして関わった全員がきっと消費税8%をどこかで負担している。


よりよい社会にならんことを願って。



今日は社会に対して8%だけ感謝を上乗せしようじゃないか。

不味くて苦い缶コーヒーを飲みながら

8%の涙。
サンキューの日
3月9日 3(サン) 9(キュー)

サンキュー!!

ありがとうございます。

自分が笑顔を向けることで周りの人が笑顔になる。
周りの人が笑顔になれば、
そのことでまた自分が笑顔になる。

人が幸せになることが、自分が幸せになる唯一の道。

感謝の言葉。

幸せの言葉。

エンジニアにとって
必要なものって何でしょうかね。

知識や技術でしょうか
人に説明できるトーク力、コミュニケーション力でしょうか
設計書や手順書など作成するドキュメント力でしょうか

しかし
それら全てを例えば独学で用意して、
すべて持ち合わせていても
『させてもらう』仕事や場がないと
結局、何もできない。
そのように最近思うのです。

さらに
何事も最終的には
『させていただ』かなければ
出来るようにはならんのです。

そう考えると、
一番必要なものは
『人柄』
だと。

そういう結論に達しました。

まあ何事においても当てはまる気が致します。
吾唯足知
すべてが満たされた日だった。

仕事中、沢山の人が私に電話をかけてくださった。
四六時中、話をしていた。

昨今、様々な勤務形態があるとはいえ、
金曜日は皆疲れている・・・帰りの電車。

私は電車が混む駅あたりには席をゆずることにしている。
しかし、「どうぞ」と言わんばかりにすれば
「ゆずってやる」という心根が生まれる。



そうではない。




そっと席を立つ。
ゆずらせて「いただく」のだ。
このことで心温まらせていただくのは私である。

本日は、ご年配の男性があたりを見渡していたので
私は席を立った。

すると
「いいんですか」と声をかけられた。
少し驚いたが、すぐにお互いが笑顔となった。

私が降りる駅で、その方は「ありがとう。」と声をかけてくださった。

疲れも癒されるほどの心を頂いた。



私のところへ流れてきてくださる・・・すべての気。流れ。

私に満ちあふれる喜び。

われ、ただ足るを知る。

感謝。
言論の自由とは
「何を言ってもいい」
ということではない。

何を言ってもいいなら、名誉棄損なんていう考え方があること自体がおかしいわけです。


言論の自由とは
主張や思想を国家やそれ相応の権力によって検閲あるいは弾圧されないという保証です。


他人に何を言ってもいいわけではなく、
最低限必要なマナーがある。

選ぶべき言葉がある。

人に話を聞いてもらいたいなら
どんな時代でも最低限の詩と礼は学ぶべきなのです。

果たして、その最低限をこんな私でも学びとれるでしょうか。

果たして、その最低限を我が子に、次の世代に伝えていけるでしょうか。


何事も



あなたに

言いたい、伝えたい、

あるいは

聞いてほしい、話したい


と思っていただける。

そんな自分でありたいものです。



そしてそう在れるのならば

そのことに深く感謝して



新しい私を歩んでいきたく、思うものです。



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