リフレクション その2
2014年1月15日 エッセイリフレクションの正体について。
前回、リフレクションという日記を書いたが、その続き。
http://58391.diarynote.jp/201401131450404511/
私は前回、
「自分に向かってくる【自分の悪意】から自分の心を守る術を知らなかった。」
と表現したが、
それは違う。微妙に違うのぅ。
もっと正確にいうと、
「【私の純粋】は【自分の悪意】から自分の心を守ることを許せなかった。」
が、しっくりくる。
しかしまあ純粋だと思っていた【私の純粋】は、実はそうではなかった。
自分というものが自分というものだけでは成立していないことを
このときは知っていなかったのだ。
私は私の自由意思を【私の純粋】だと考えていたに過ぎない。
小さな世界で自分に風を当て続けてはいたが、
しかしそれはサクリファイスなどではなかった。
自由との等価交換であるかのような錯覚。
どこまでも独りよがりな空虚。
それは純粋ではなかった。
それこそが暗闇の雲。
それこそが真に【自分の悪意】だったのだ。
自分と他とを区切ることこそが悪意だったのだ。
ではリフレクションは区切りではないのだろうか。
リフレクションは区切りではない。
悪意をせきとめる斥力だ。
調和を維持する秩序だ。
存在を人間たらしめる「思いやり」であり、
私が存在し得るために必要なエネルギー。
それはつまり感謝の念である。
この力を最大限に引き出すためには
自分と他人の垣根を捨てて、
そして万象が自分を生かしてくれているその恩に気づけばよい。
おのずから感謝の念が沸き起こり、
このリフレクションによる調和は強まっていくだろう。
そのパワーが最高域に到達したとき、
【自分の悪意】は「自分の悪意」ではなくなる。
すべての隔たりが取り払われたとき
自ら調和をとれるレベルに達し、矩を超えない人格となりて
リフレクションは再び不要になるだろう。
前回、リフレクションという日記を書いたが、その続き。
http://58391.diarynote.jp/201401131450404511/
私は前回、
「自分に向かってくる【自分の悪意】から自分の心を守る術を知らなかった。」
と表現したが、
それは違う。微妙に違うのぅ。
もっと正確にいうと、
「【私の純粋】は【自分の悪意】から自分の心を守ることを許せなかった。」
が、しっくりくる。
しかしまあ純粋だと思っていた【私の純粋】は、実はそうではなかった。
自分というものが自分というものだけでは成立していないことを
このときは知っていなかったのだ。
私は私の自由意思を【私の純粋】だと考えていたに過ぎない。
小さな世界で自分に風を当て続けてはいたが、
しかしそれはサクリファイスなどではなかった。
自由との等価交換であるかのような錯覚。
どこまでも独りよがりな空虚。
それは純粋ではなかった。
それこそが暗闇の雲。
それこそが真に【自分の悪意】だったのだ。
自分と他とを区切ることこそが悪意だったのだ。
ではリフレクションは区切りではないのだろうか。
リフレクションは区切りではない。
悪意をせきとめる斥力だ。
調和を維持する秩序だ。
存在を人間たらしめる「思いやり」であり、
私が存在し得るために必要なエネルギー。
それはつまり感謝の念である。
この力を最大限に引き出すためには
自分と他人の垣根を捨てて、
そして万象が自分を生かしてくれているその恩に気づけばよい。
おのずから感謝の念が沸き起こり、
このリフレクションによる調和は強まっていくだろう。
そのパワーが最高域に到達したとき、
【自分の悪意】は「自分の悪意」ではなくなる。
すべての隔たりが取り払われたとき
自ら調和をとれるレベルに達し、矩を超えない人格となりて
リフレクションは再び不要になるだろう。
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