今から書くことは真理です。
※「まり」ではありません。

・怒り。
・感動する。
・認めてもらいたい。愛されたい。


「怒り」という感情の正体は、
「わかってくれない」という深い悲しみです。

「感動する」というのは、
「わかった」とき
つまりその物事に大いに同意/共感し、そのことで感情が高まったときに生じるものです。

「認められたい。愛されたい。」という欲求はつまり
「わかってほしい」という事です。

そういうベクトルにむかって
人生をかけて挑む人がいます。

生理的なものを除いて
おおよそ衝動というものの原点は
「わかってほしい」なのです。


散々説明させたあげくに
「意味がわからない。」
などという言葉を相手にむけて使っていませんか。
全面不通を意味するこの言葉は、
コミュニケーションの袋小路です。

まずはわかってあげようと手を広げないと
あなたはむしろ逆に
誰にもわかってなどもらえなくなってしまいます。

自己主張の激しい昨今です。
が、主張とは何でしょうか。

一方的にわかってくれ、わかってくれとわめく赤子のような発信のことでしょうか。

相手を受け入れる覚悟が
まずはあなたにない限り、
わかってもらえたりはしません。
なぜなら分かち合うということは相手がいてはじめてできることだからです。

頭でわかってても駄目です。
行動を起こしましょう。DO!!!

自分から何かを差し出す勇気はあるか?

コメント

TAWAMI
2013年11月11日0:02

こんばんは。コメントで失礼します。
お気に入り登録ありがとうございました。
わたしからも相互リンクさせていただきますね。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

きんぐ侍
2013年11月11日0:10

DiaryNoteはじめてもうすぐ10年ですか。ロングですね。ロング。
私も一応はじめたのはそのぐらいですけど
全然書いてない期間が何年もあるので実質3~4年ぐらいかもっと少ないかです。
どうぞよろしくお願いします。

きんぐ侍
2013年11月11日1:38

まったく別の人の日記ですが、
下記のような内容の素晴らしい日記を見つけたので、これを私事として考えてみる。

『自分以外の他者に対して啓発をして何になる。
 彼らは社会は一個の人間が変革しようにも手に負えない現実世界だ。
 啓発は無意味ではないのか。本当に啓発をして変えたいものは己ではないのか。
 自分はこんなにも苦しくて辛いから社会を変えてやろうという復讐ではないのか。
 何故、自分の苦しみを自分で救ってやらないのだ。成長と退行を満たしてやらないのか。』

結局は自分を変えていかなければならないという事はその通りだと思います。
しかし、社会は一個の個人の集合体であるとも言えます。
わずかな一声であっても、例えば「ゴミのポイ捨てやめましょう」とか、
発信することで社会が変わることを願うことは
自分の未熟さや不満を社会のせいにした復讐ではありません。
他者に対しての啓発は無意味ではないと私としては思います。
個人一人ひとりが声を掛け合うことによって、
互いに自分を高める要素を得て変わっていく。
そうすることで生まれる少しでもよりよい社会を次の世代へ残すことが
親の、先行くものの務めと信じています。

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索