「理解」など何の足しにもならん。
2014年4月12日 エッセイ コメント (2)知っているか、知らないか。
なんて何の役にも立たない。
出来るか、出来ないか。
だ。
まあ確かに
「知らなくたって出来る。知っている人を探せばよい」って誰か偉い人が言いましたよね。
それも1つですが、
しかし、今回はそういうことを言いたいのではありません。
===================
テレビや本やインターネッツやDNをみて
「イイハナシダナー」なんてのはザラにあり、
「知ってるよ」なんて誰でも言えるこのご時世。
しかし、だからって
その感動話やら啓発やらから即座に
自分の行動を変えて実行に移せる人はどれだけいるでしょうか。
あなたがいくらたくさんの本を読んだからって
朝、道端に捨てられている無数のタバコの吸い殻を拾い集めている人には
まるでかなわない。
なんて何の役にも立たない。
出来るか、出来ないか。
だ。
まあ確かに
「知らなくたって出来る。知っている人を探せばよい」って誰か偉い人が言いましたよね。
それも1つですが、
しかし、今回はそういうことを言いたいのではありません。
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テレビや本やインターネッツやDNをみて
「イイハナシダナー」なんてのはザラにあり、
「知ってるよ」なんて誰でも言えるこのご時世。
しかし、だからって
その感動話やら啓発やらから即座に
自分の行動を変えて実行に移せる人はどれだけいるでしょうか。
あなたがいくらたくさんの本を読んだからって
朝、道端に捨てられている無数のタバコの吸い殻を拾い集めている人には
まるでかなわない。
コメント
「自分の足しを考える事は実は自分の足しにはならない」という結論は
わたしさんはすでにお持ちのように思います。
語弊を恐れずに言うならば、「社会への足し」です。偽善ではありません。
周囲への足しです。
周囲への足しこそが結果自分の足しとなります。それが本質です。